花火文化と鍵屋弥兵衛/五條市

ただ、両国川の花火は座敷や納涼舟から楽しむことを原則としたため、現在各地で見られる花火大会ほどの規模ではなく、一つひとつの花火は小さくとも、変化と優美さを尊んで製作されるのが昔からの伝統だったそうです。

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県民・県外のみなさまへ 本県では、高い危機意識を持ち続けながら、感染拡大を抑え、全力で命を守る取組を進めるため、「緊急対処措置」を実行しています。

花火文化と鍵屋弥兵衛/五條市

江戸の名物となった両国川開きの大花火は、現在全国各地で開催されている花火大会の発祥になった催しと言えますが、これを支えた「鍵屋」の初代弥兵衛という人物が、実は大塔町篠原の出身であったと伝えられています。

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西吉野町西日裏• 「一両が花火間もなき光かな」(其角)の句があるように、二件が競い合うことで加熱した花火大会では、納涼舟や水茶屋の川遊びに興じる武家や豪商の出費が大きくなった事から、天保13年(1842年)には幕府が鍵屋と玉屋に対し、巨額の打ち上げ花火や仕掛け花火を禁止しています。

花火文化と鍵屋弥兵衛/五條市

西吉野町川股• それどころか、昭和16年には空襲の危険から花火の製造自体が全面的に禁止される事になりました。 寛文5年(1665年)には「町中にて花火拵り商売堅く仕間敷候、勿論こしらへ置候花火有之共町中にて一切立て申間敷候事」と、さらに厳しく町中での花火や花火商が禁止されています。

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西吉野町滝• 十二代目は昭和14年に大塔村役場に「花火で成功した先祖の供養をしたいので縁者を探してほしい」と申し入れ、これを受けて五條に出ていた縁者が代表として上京し、鍵屋を訪ねたようです。 これ以前にも天正17年(1589年)に伊達正宗が花火を楽しんだという記録や、ポルトガルの宣教師が花火を打上げて人々を驚かせたという話もあるようですが、いずれにせよ、それまでの戦乱の時代に鉄砲やのろしに使われてきた火薬が、泰平の時代を迎えたことで娯楽に使われるようになった表れと言えるでしょう。

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明治4年、戸籍法の施行により、鍵屋は出身地の篠原にちなみ、姓を「篠原」と名乗り、篠原に残る縁者は鍵屋にちなんで「鍵谷」の姓を名乗るようになったと言われます。 西吉野町宗川野• 西吉野町津越• 西吉野町鹿場• 西吉野町大峯• 安全祈願、あるいは商売繁盛に信仰されていたものと考えられます。

西吉野町阪巻• 西吉野町小古田• 西吉野町老野• 西河内町• 管内は「明治維新発祥の地」「小辺路」「源泉掛け流し温泉」など、歴史的な魅力と豊かな自然に恵まれた地域であり、観光地でもあります。

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この事にちなみ、翌年の享保18年には5月28日に両国川開きが行われ、8月28日までの3ヶ月間、納涼舟の舟遊びと共に、毎夜さまざまな花火が六代目鍵屋弥兵衛によって打ち上げられるようになりました。 西吉野町立川渡• 弥兵衛が江戸までに経由した道のりとして三河や遠州を上げましたが、弥兵衛がこうした地域で火薬技術の更なる研鑚を図った時期があったとすれば、この地域で有名な豊川稲荷にもきっと参拝したことでしょう。

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稲荷神は元来稲の豊作を祈願する神でしたが、山の神としての信仰や土地の守り神のような信仰とも関係があったようですので、花火師の弥兵衛は安全祈願に稲荷を信仰したのかも知れません。

花火文化と鍵屋弥兵衛/五條市

西吉野町平沼田• 五條警察署長の東田至弘 ひがしだ よしひろ です。 西吉野町本谷• 幕府は火薬の取り締まりを厳しくし、家康の故郷である三河などが特別に火薬の製造と所持を認められていたようで、後に名物となった手筒花火につながる火薬技術発展の一因になったと言われます。 敗戦後の東京は悲惨な状況ではありましたが、昭和23年、両国川開きの大花火が久しぶりに復活すると、観客は70万人、警備の警官も3千人が動員される活況を呈しました。

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両国川開きの大花火の盛況が一段と盛り上がったのは、やはり前述のように鍵屋と玉屋が互いに技を競い合うようになってからだったようです。

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初代弥兵衛が江戸に鍵屋を開く11年前の事です。

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花火文化と鍵屋弥兵衛/五條市

こうしてまたも盛況を取り戻した両国川開きの大花火でしたが、都市の発達は花火大会の実施を困難に至らしめ、昭和37年、交通事情の悪化が懸念されることから、両国川開きの花火大会はついに禁止される事になってしまうのでした。

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そして天保14年、玉屋は花火の製造過程での失火により、町並み半町ほどを焼いてしまう大火事を出してしまいます。